アムステルダム Amsterdam

オランダ政府観光局公式ページ アムステルダム

Amsterdam1593

Guicciardini (1593) アムステルダム In Wikimedia Commons

オランダの首都。行政上の首都はハーグなので、アムステルダムは商業地に特化しています。これは17世紀当時から同じですね。実は街自体がつくられたのは1200年代なので、ヨーロッパの中でも新しい部類の街に入ります。 ビネンスタットと呼ばれる旧市街地には、オランダ東インド会社本部のほか、過去にレヘントたちが住んでいたような巨大な邸宅もあります。オランダのほかの街と比べても、アムステルダムだけが全く縮尺や雰囲気が違うことがわかると思います。共和国期、戦費の半分以上を負担していたホラント州ですが、さらにその大半をアムステルダムが捻出していたというのも納得です。歩き回るだけで、そのスケールからアムステルダムの迫力を感じることができます。

Berckheyde - De bocht van de Herengracht

Gerrit Adriaensz. Berckheyde (1672) ヘーレンスグラハト In Wikimedia Commons

1670年代の新市街地。整然と邸宅が並んでいる様子です。

王宮

Het stadhuis op de Dam te Amsterdam Rijksmuseum SK-A-1733

Gerrit Adriaensz. Berckheyde (1673) ダム広場の市庁舎 In Wikimedia Commons

オランダ政府観光局公式ページ アムステルダムの王宮

市内中心部のダム広場にある王宮は、1652年に焼失した旧市庁舎の代わりに新市庁舎として建てられた建物。2013年4月30日、ベアトリクス女王の退位とウィレム=アレクサンダー国王の即位式典がおこなわれたのもここになります。住居ではなく迎賓館で、内部の一部は一般公開もされています。

Inkomst van stadhouder Willem V en Wilhelmina van Pruisen te Amsterdam

Reinier Vinkeles (1772) ウィレム五世と妃ウィルヘルミナの到着In Wikimedia Commons

18世紀の絵画ですが、内部の「市民の間」(というには豪華です)の様子。内装自体は今もあまり変わらないようです。

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Unknown (17th century) Prins Maurits In Wikimedia Commons

このオランイェ公マウリッツの肖像も王宮内にあるとのこと。晩年ですね。

博物館

  • 国立博物館参照。
  • アムステルダム歴史博物館参照。

オランダ政府観光局公式ページ 海洋博物館

2011年11月にリニューアルオープン。2013年の新国王の即位式に伴い、皇太子殿下が訪れたことでも話題になりました。

De Amsterdam1

VOC船『アムステルダム (1749)』のレプリカ (1990年建造) In Wikimedia Commons (Public domain)

リニューアルしたとはいえ内装が近代的になっただけで、建物自体は1655年に建てられた武器庫そのままだそうです。外壁も以前より白くキレイに塗りなおしてあります。オランダ東インド会社の帆船「アムステルダム」の実物大レプリカがあります。中は積み荷なども当時のように並べてあるようです。

市域拡張計画と世界遺産「アムステルダムの17世紀の環状運河地区」

Jacob van Ruisdael - A view of Amsterdam 1665-1670

Jacob van Ruisdael (1665-1670) アムステルダム鳥瞰図 In Wikimedia Commons

17世紀のアムステルダムでは四期に分けて市域拡張計画が実施されました。このライスダールの絵画は、ちょうど第四次拡張が終わった直後くらいの鳥瞰図です。

アムステルダム市域拡張計画

17世紀のアムステルダムの市域拡張計画は、1578年から1665年のほぼ100年間、第一次から第四次に分けられます。その前後も含め、6枚の地図でその拡大の変遷を追ってみます。

  1. 1578年 アムステルダム市がカルヴァン派採用 信教による人口の移動がおこる
  2. 第一次 1585年 アントウェルペン陥落(1585)による南部からの移民流入 要塞化
  3. 第二次 1606年 第一次とひとくくりにされる 1596年からの経済危機による一時頓挫ののちの再計画
  4. 第三次 1613-1625年 十二年休戦条約期/レイニール・パウが市長の時期
  5. 第四次 1660-1665年 第一次無州総督時代
  6. 1685年 ナントの勅令廃止によるフランス移民の流入

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Georg Braun / Frans Hogenberg (1572) In Wikimedia Commons

1. 拡張計画「前」、人口移動の起こる前の図です。1538年頃に描かれた地図とほとんどかたちが変わりません。市域を囲む運河の外は、すぐに畑になっています。ただ、既に海運は盛んで、運河内にも小船がたくさん泊めてあります。

Amsterdam1593

Guicciardini (1593) In Wikimedia Commons

2. 出版は1609年。1593年、第一次拡張計画後を描いたもの。拡張計画前とのいちばんの違いは周囲の要塞化で、街全体が稜堡で囲まれました。

Balthasar Florisz. van Berckenrode - Amsterdam

Balthasar Florisz. van Berckenrode (1625) In Wikimedia Commons

3/4. 出版は1648年。1625年、第二次拡張を経て、第三次拡張がちょうど終わった頃です。街全体も大型化しており、右下の港部分も埋め立てが行われ、陸地を増やしています。

Map of Amsterdam - Amstelodami Celeberrimi Hollandiae Emporii Delineatio Nova (J.Blaeu, 1649)

Joan Blaeu (1649) In Wikimedia Commons

3/4. 1649年。第三次以降とくに知られた拡張計画はなかったものの、年々マイナーチェンジはしているようです。左下の港の端の海部分まで要塞がせり出してきています。また、左側全体に薄ーく堡塁の線が描かれていて、後の大規模拡大計画につながる様子は既に見て取れます。

Amsterdam1662

Daniel Stalpaert (1662) In Wikimedia Commons

5. 第四次拡張計画時の図。1649年の地図の外枠より、心持ち大きいでしょうか。100年前と比べると、5倍以上の面積に広がりました。第一次無州総督時代で、かつ、英蘭戦争で海戦は行われているものの、ミュンスターやフランスから陸路での侵攻が行われる前の時期です。外側に行けば行くほど碁盤の目状になっていて、ここに至って、「環状運河」が完全に整備されたといえます。

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Frederik de Wit (1688) In Wikimedia Commons

6. 17世紀における拡張がほぼ完成した頃の拡張「後」の図。オランダ侵略戦争を経て、ちょうどウィレム三世の「名誉革命」の頃です。市域は第四次拡張計画時とほぼ同じですが、第四次計画時に新たに造成された宅地にはだいぶ家も増えて、入居も進んでいるようです。 第一次・第二次こそ宗教的な理由での移民流入という不可抗力によるものですが、第三次・第四次は純粋に商業の発展による拡張です。また、これらの拡張は、休戦期や英蘭戦争期など、陸軍の活動が停滞しているときに大々的に行われています。「黄金時代」のオランダひいてはアムステルダム商人の財力をもってしても、軍隊(とくに大規模攻囲戦)の維持費と都市の拡張工事は並び立たなかったということです。逆にいえば、それだけ歳出に占める軍事費の割合が大きかったことがわかります。

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