オランダ政府観光局公式ページ ライデン
日本では「ライデン」と表記されることが多いようです。
Joan Blaeu (1649) “Atlas van Loon” In Wikimedia Commons
八十年戦争の中でも前半のハイライト、1573年10月-1574年10月3日の攻囲戦争で有名。レイデンの街は、約1年に渡り、スペイン軍の攻撃に晒され籠城していました。飢餓の中、市民は耐えて、最終的には洪水によってスペイン軍を撃退しました。これは偶然の自然現象だったとはいえ、「反乱」が始まってから初めてスペイン軍の撃退に成功した事例となり、歴史的にも非常に象徴的な出来事になったわけです。この10月3日、「レイデン解放の日」は、今でも各種イベントが行われ、日本のオランダ大使館でも毎年ニシンパーティーが開かれています。城塞
1150年頃からあるという古い円形の城塞。レイデン攻囲戦のときに、市民がここに立て篭もったそうです。直径は50mもないと思われ、籠城するにはとても狭そうです。
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トップの古地図にも、ちょうど中心に円形で描かれているのですぐにわかります。そのすぐ右にある教会が聖パンクラス教会です。
レイデン大学
レイデン大学 In Wikimedia Commons (Public domain)
レイデン解放のご褒美として、ウィレム沈黙公が1575年に設立した大学。オランダ唯一の日本語学科もあり、歩いているといきなり日本語で話しかけられたこともあります。
ラーペンブルフ
ラーペンブルフ61番地 In Wikimedia Commons (Public domain)
運河沿いのラーペンブルフ通りは、街並みの美しさから観光ルートにもなっています。レイデン大学もこの運河沿いにあります。冒頭の地図だと、中央を流れる運河の下に、半円形の弧を描いたやや狭い運河がありますが、この運河の両端がラーペンブルフです。運河の下側一体がレイデン大学になります。 少年時代のナッサウ伯マウリッツやフレデリク=ヘンドリクが、レイデン大学に通うために住んだ建物もあります。一時期のオランイェ公妃ルイーズ・ド・コリニーや、晩年のユスティヌスも住んでいたことがあります。現在は一般企業が入っているため写真公開できませんが、建物の前に「Princehof」と書かれたプレートが掛けてありました。この建物も、よーく探せば、上記の地図内に描かれています。(ラーペンブルフ沿いの「74」と書かれた青い屋根の屋敷を探してみてください!)
聖パンクラス教会 Pancraskerk/ Hooglandse Kerk レイデン
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Hooglandse Kerk
10月3日(レイデン解放の日)、またはイベント開催時しか一般には公開されません。 レイデン市内でもかなり大きなプロテスタント教会。ナッサウ伯ユスティヌスとその妻が葬られています。ユスティヌスは晩年をレイデンで過ごしましたが、そのままこの街に葬られたようです。正嫡ではないため、ブレダやデルフトのナッサウ家の墓所には入れなかったものと思われます。レイデン攻囲戦(1574)時の市長ファン・デル・ウェルフの墓所もあります。 残念ながら内部は公開されていないので、外観の写真のみ。または、上記リンクから、内部の様子の写真を見ることが可能です。
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ちょっと離れた要塞から全体を撮った写真。大きいので、ここまで離れないと全体がなかなか写りません。
Jan van Goyen (1650) In Wikimedia Commons
ファン・ホイエンの「北西から見たレイデンの風景」。いちばん左の建物が聖パンクラス教会です。17世紀当時の姿も、現在の形とほぼ同じに見えます。ちなみに、中央の似たような形の教会はピーテルス教会だとか。